『貴族探偵対女探偵』 麻耶雄嵩
芸術をつかさどる女神は気まぐれで、書き手にも読み手にもむごい仕打ちを往々にするものだが、時には思ってもみない気前の良さをみせてくれる。
日本のミステリにおいて、麻耶雄嵩がおおむね常に偉大であったことは、間違いなく最大級の贈り物であると言えるだろう。
などとポジショントークを弄しておいてなんだが、本作は著者が書いてきた作品の中では並に属するのではないかと思う。もちろん、「幣もとりあへず」は見事なのだが、どうしても「こうもり」の残像を拭いきれない印象だし、消去法を中心に組み立てられる論理の展開は、前作に親しんだ人間からするとアクロバティックさに欠けるように感じてしまう。
もちろん、女探偵の推理→貴族探偵を犯人と名指し→使用人たちによる再推理という定型を、一冊の本の中で作り上げ、最後にはズラしてみせるという手腕は、一人スルーパスのような奇怪な様相を呈していて、これを麻耶雄嵩以外の人間が書いたのであれば、わたしも賞賛を惜しまなかったはずなので、作者の偉大さが裏目に出たと言えるのかもしれない。
ここで終ると少し味気ないので、文脈的な話をしよう。
近頃、麻耶雄嵩はメルカトル鮎ものと貴族探偵ものを単行本で並列して出している状況なのだが、この両者において「新本格というジャンルにおける名探偵はどうような存在であるべきか」というテーマへの処理は明確に異なる。
前者において銘探偵であるメルカトル鮎は「無謬」であると前書きにおいて断言される。要するにこれは、ミステリにおいて「真実」を保証するのは、究極的には作外の根拠であるというアプローチである。*1
これに対して、貴族探偵では全く違うアプローチが採用されている。彼はそもそも推理を行わないのだ。では作中で彼は何をしているのか?本人の言葉を借りるなら彼がしているのは「解決」である。解を決める、その言葉の通り、彼の役割とは作中において「真実」を保障することなのだ。
詭弁だと言う人もいるだろうし、それでも貴族探偵が解の選択を間違いうると言う人もいるだろう。しかし、多くのミステリにおける推理は何処か詭弁めいたものだし、ここで問題になっているのはあくまで「真実」ではなく、その根拠の方なのだ。*2。
「真実」の根拠は何処に求めるべきなのか?
その答えはともかくとして、麻耶雄嵩が偉大であることは、幸運なことに未だ疑いようのない真実である。